リオ・パラリンピックと世界選手権で銅メダルを獲得したパラ陸上の辻。東京へ向けて走り出した彼女の今に迫った【スポーツナビ】
障がいは、一つの身体的特徴である。今ある自分の体を見つめ、己の武器に磨きをかける。そんなパラアスリートの視線の先にあるものは何か。東京パラリンピックに向けて前進するアスリートたちの姿を追う。
日々、単調に見える苦しいドリル練習をコツコツと積み重ねていけること。それは、トップアスリートの重要な資質の一つである。
パラ陸上競技の選手である辻沙絵(日本体育大)は、2016年リオデジャネイロ・パラリンピックの400メートル、2017年イギリス・ロンドンで開催された世界選手権の同種目でそれぞれ銅メダルを獲得した。
1994年、北海道で生まれた辻は、生まれつき右ひじから先がない。小学5年でハンドボールを始め、強豪校である茨城県立水海道第二高に進学。さらにスポーツ推薦で日本体育大に進み、ハンドボール部に所属していた。
転機は、大学2年の時。体力測定の結果からパラ陸上競技への転向を打診された。
「正直、なんで私が? という感じでした」
ハンドボール経験も豊富で、試合出場時間も長い。選手としての自負があった。だから話を聞いた瞬間、「結局、みんな私のことを”障がい者”だと思っていたのか」と、戸惑いと悲しみがない交ぜになった感情が押し寄せたのだった。
「あの頃は、パラリンピックとか障がい者のスポーツはかわいそうな人が頑張ってやっているもの、というイメージが自分の中にありました」
自身の中に反発を感じながらも、パラ陸上に挑戦する覚悟を決めたのは、五輪とパラリンピックの両方に出場した卓球選手、ナタリア・パルティカ(ポーランド)の存在を知ったからだ。辻と同じく右ひじから先がない。大学で映像を見て衝撃を受けたという。
「パラアスリートのパルティカ選手だからこそ、オリンピックとパラリンピックの両方に出場できた。もしかしたら、私にも、私にしかできないことがあるかもしれない」
やってみよう。辻の挑戦がスタートした。
当初、パラスポーツに取り組むことに反発を感じていたという辻。
しかし、世界選手権、パラリンピックを経験して心境にも変化が起きたと話す【スポーツナビ】
「ハンドボールを始めた子供の頃は、遊びの延長でただただ楽しく取り組んでいるうちに上達できました。でも、陸上を始めたのは大人になってから。頭で理解して取り組みたいのに、基礎練習の一つ一つに、これはいったい何のためにやるんだろう、何を意識してどう体を動かせば正解なんだろうって、頭の中に”?”がいっぱいだったんですよ」
いったん脳を白紙にして、体を動かし続けた。コーチや先輩が、この動きはこうすればいい、この練習の目的はこれ、というようにそれこそ手取り足取り教えてくれる。すると、昨日できなかったことが、今日少しだけできるようになる。走りが変わる。少しずつ頭と体が連動し、コーチが言っていたのはこのことだったかと、ストンと腹に落ちていくのだ。
「昨日覚えたことを、今日思い出して取り組む。その日、その日は前に進んだ実感がないけれど、繰り返すことでやっと身についていくという感じでした」
自身初の国際大会となる2015年の世界選手権に出場したことで、一層、パラ陸上競技への意欲が高まったという。
「世界の舞台には、自分の長所を武器にして高いレベルで戦う選手がいる。スポーツに健常も障がいも関係ないって、心から思えました。私は、まだまだ下っ端。でも、一生懸命に練習したら、彼らのいるところに到達できるのではないか」
その世界選手権で、片大腿義足の山本篤(スズキ浜松AC)が走り幅跳びで金メダルを獲得。日の丸が掲揚されて君が代が流れた。心が震えた瞬間だった。
そこからはリオ・パラリンピックに向けてまっしぐら。ハンドボール時代からスピードと瞬発力が持ち味だった。100メートル、200メートル、400メートルに取り組む中、メイン種目は400メートルと見据えていった。
そうして、リオ・パラリンピックに出場。
「人生を一変させる大会でした」
400メートル決勝進出を決めると、メダルの懸かったレースを前に初めて「怖い」と思ったという。
「トラックに行きたくない。決勝の前日、パニック状態になりました。その時に水野(洋子)コーチから”今日までついてきてくれてありがとう。明日、もしダメでも日本に帰ってまた一緒に練習しようね”って言われたんです。そうか、ダメでもいいのかと吹っ切れた。こんな精神状態は、ハンドボール時代にもありませんでした」
レース本番の朝は静かな海のような心で迎えた。ゴールを駆け抜けたら3着だった。
リオ・パラリンピックで「もっと素晴らしい景色がある」と気づいた。帰国後、時の人になり練習ができない時もあったが、
その景色を見るため苦しい練習にも取り組むことができている【写真:ロイター/アフロ】
辻は、達成感に包まれていた。苦しい練習を続けてきたからこそ取れた銅メダル。意気揚々と表彰台に昇った。 やがて優勝した中国選手の国歌が流れると、ふと我に返る。右隣のもっとも高い場所の金メダルが目に飛び込んできた。
「神様がチラっと見せてくれたんです。限界の、その先にある世界を」
目指すべきはここじゃない。もっと素晴らしい景色がある。しかし、それをつかみ取るためには、これまで以上に過酷な練習に耐えなくてはいけない。それは辻にとっての、新たな啓示だった。
銅メダリストとして帰国すると、辻は一躍時の人となる。4年後の東京パラリンピックに向けて、注目度は否が応でも増していった。五輪選手らとともに数多のメディアに登場し、イベントに招かれた。
「たくさんの貴重な経験ができたし、素晴らしい出会いがありました。でも、練習できない日が続くと、当たり前ですがパフォーマンスは明らかに落ちていくんです」
疲弊して、もう陸上から遠ざかりたいという気持ちにまで追い詰められていた。
「本末転倒ですよね。でも、3月に大学を卒業して、すぐ陸上部の沖縄合宿に出かけたんです。久しぶりに陸上の練習だけに集中しました」
昼は練習、夜はミーティング。練習がしっかりできれば、タイムも上がる。感覚も戻ってくる。
「タイムと体の動きが一致してきた。やっと本来の自分を取り戻せたような気がしました」
世界選手権でも銅メダルという結果を出した辻。「人生の全てを懸けて」彼女は走り続けている【Getty Images】
2017年7月。ロンドンでパラ陸上の世界選手権が開催された。5年前にロンドン・パラリンピックが行われたスタジアムのトラックに、辻は立っていた。女子T47クラスの400メートルが行われたのは、大会最終日だ。
「レース当日の朝、水野コーチと一緒にスタンドに行ったんです」
自分が走るトラックをスタンドから見下ろした。そして、400メートルレースをシミュレートする。ここからスタートして、100メートル、最初のコーナー、200メートル、300メートル、最後の直線、そしてゴールへ。加速走、等速走、ラストスパート。自分の走りを、鳥の目線で追いかけた。
スタートラインに立った辻は、朝のシミュレーションを思い出していた。
「スタンドから見下ろす自分と、レーンを走る自分の姿が重なった。ああ、いける。きっと大丈夫だと確信して、本当のスタートを切りました」
記録は1分00秒67。目標としていた59秒台には及ばなかったが、再び銅メダルを手にしたのだった。
「リオの時には日の丸を背負うことの重さを感じた銅メダル。今回は、メダリストとしての重圧を感じながら走った銅メダル」
辻の日常は練習スケジュールありき。それを中心に食事も睡眠も、ケアも明日の準備もする。毎日同じことの繰り返しだ。
「大げさに聞こえるかもしれないけれど、人生の全てを懸けています」
だからこそ、この2年間に世界で勝ち取った2個のメダルはズシリと重い。
走る。それだけの競技にただ我を忘れる。
「すごく奥が深くて、難しくて苦しい。でも、限界のその先に追い求めている景色が広がっている。だから、やめられないんです」
辻沙絵は、苦しさをいとわない。まさに、トップアスリートなのである。
宮崎恵理
東京生まれ。マリンスポーツ専門誌を発行する出版社で、ウインドサーフィン専門誌の編集部勤務を経て、フリーランスライターに。雑誌・書籍などの編集・執筆にたずさわる。得意分野はバレーボール(インドア、ビーチとも)、スキー(特にフリースタイル系)、フィットネス、健康関連。また、パラリンピックなどの障害者スポーツでも取材活動中。日本スポーツプレス協会会員、国際スポーツプレス協会会員。著書に『心眼で射止めた金メダル』『希望をくれた人』。